マルコ・マリナッチ

「調和」のしるし


ジュゼッペ・シニスカルキとの幸運な出会いは、ある共通の友人を介してのものだった。 今でも科学博物館でミラノ工科大学監修の展覧会を見に行ったそのときのことを覚えているが、我々はそれからのいろいろなつながりについて考えることもなく、ただ、彼の携帯に入っていた作品の写真をいくつか見た。 言うまでもなく、その瞬間、我々はふたりともイタリアのアートや文化遺産への情熱に動かされていること、保存の活動にお互いに関わっていることを確信した。そして、私にはすぐにわかったのだ。そこで意味をもつのは、通常現代の美術評論で必要とされるような道具立てではなく、芸術的経験の美の「境界」をどのように定めるかだということを。それは、美術史において確立している確固としたものではない、微妙な「境界」を定めるもので、個人的かつ人間的なヒストリーに内包された「詩」の発するメッセージをとらえるものなのだ。
 実際そこに表現されているのは、語ることの難しいヒストリーだ。一方で根源的で複雑な象徴体系を表し、もう一方で創造的直感が有する言語がそこに表出しているからだ。その言語は幼児期にオリジンをもつ、単なる美的領域を越える「詩」を生み出す。人生の真の全的体験でありつつ、芸術作品自体の強力で精確な意志をさし示す体系の「記号」を研ぎすます。それは、顕示される瞬間、ヴェールをはぎとる行為、かつ、何よりも、ある新しい世界を現出させる可能性でもある。それこそ、ガダマーによれば、ただ「芸術」にのみ属する可能性だ。
 このような誕生の過程において、シニスカルキの作品の最も根源的メッセージが読み取れる。それは、美術史とは偉大な幻視者たちの「記号」を旅することを教えるものだということである。彼が色彩を継承するゴッホにはじまり、多くの画家たちをへてバスキアに至る道だ。1万8000年以上前にアルタミラの洞窟の奥深くにしるされた軌跡に連なり、我々にまでつながっている。
 ここで今、偉大な幻視者たちの芸術が伝えてきた救済のメッセージが改めて伝えられる。シニスカルキの絵の根源は、我々ひとりひとりの奥底から取り出されて横溢する、何よりも「記号」と色というパラダイムからなる無限の内面性だ。そこからどんな表現が表されるかを想像するのはたやすいだろう。それは、色が象徴なら、はるかな記憶について語る子供のような素朴な「記号」であり、「アンセストラル(プリミティブ)」と形容してもまちがいではない。
 ジャック・ラカンの言うように、言語において「他者」との関係が確立するなら、「欲望」の「記号」には、ロラン・バルトが示す通り、官能が読み取れる。それは芸術作品が表現しようとするメッセージのすべてがかかっている究極の緊張であり、そこにシニスカルキの「詩」があり、明白に「他者」にむけられた「記号」を担う「しるし」が生まれる。「他者」とは「欲望」によって形成される「言語」が含意するものだが、この「欲望」は「芸術的な意図」とアロイス・リーグルが呼んだような、精緻で絶対的なある「世界観」だ。
 そこから、古典的で原初的な世界が開かれる。それは、直接的かつ根源的な象徴体系からできていて、子供の頃からずっと創造的な行為のたびに独特の表現世界を生み出してきた絵画的なアルファベットがよみがえる。シニスカルキの象徴的世界は、まさに彼独特のものだ。そのすばらしさは、大人の言葉になってしまうちょうどその直前の瞬間にとどまっているところにある。大人の言葉、すなわち本質や直接さの支配から離れ、さまざまなほかの文化、ほかの社会、ほかのアイデンティティには理解できないあのバベルの言葉の手前でふみとどまっているのだ。
 それは、ある共通の言葉、新しいエスペラントで、その根源的な絵画表現に見いだされるようだ。生命力と原初的な象徴の力でだれにでも語りかけ、まるで砂で城をつくる海辺の子供のように、だれとでも単純な行為と記号で遊ぼうとする。もしカフカが我々に、城は大人にとってもすばらしい驚きにみちた遊びであることを教えてくれたなら、シニスカルキが我々にすすめるのは、城を、感覚を失わせる高い塔にかえてしまわないように、触覚が呼び覚まされる原初的なアルファベットにこめられた深い「意味」を取り戻すようにということだ。
 そこで「私」という根を探し続ける中、魂の救済を求める、神秘的で古えからの象徴において、あえて子供っぽいその「言葉」から現れるのは、シニスカルキの「記号」の言語の基本だ。その「詩」から新たな物語と表現の地平の種が生まれる。まず作家によって内面化され、さらにたびたび油彩において描かれている小さな人の図像のトポスは、現実を越えた向こう側を最初に見つめる人だ。それはその絵画的世界で、自然に仕上げられ、組み直された現実なのだ。l
 そこで、たくさんの作品のひとつひとつにおいて、子供時代からの作者の詩的宇宙が語られる。まず「休息—疲労のあとの瞑想」に見いだされるのが、日なたに忘れられたミニカーを思わせる青いエネメルにこめられた、過ぎ去ったはるかな時代の記憶だ。今また休息のときに取り戻される遊びの時間、それは自分自身に向き合うように連れもどされた人の顔をしている。再び、ロダンの「考える人」とともに浮かび上がるのは、ゴッホの肖像だ。それはフランシス・ベーコンが描いたたくさんあるものの一つで、人間の無垢を表している。
 それから「子供たちの遊び」は、どんどんむずかしいものとなり、無垢から離れる。キャンバスと対決するような太いパステルで描かれたしるしからもうかがわれるが、それはアリスのように「鏡の向こう」の世界と遊びつづける、目には見えない猫につかまれた毛糸玉だ。ノルベルト・プロイエッティや、ミラノ生粋の画家だが地元では知られていないリッチョのような、ムナーリが教えた通り、子供時代にもどって生き生きとした遊びに満ちた表現力を得た偉大なクリエーターたちは多い。
「13」ではその糸が機織り機を見つけたようだ。古い糸かせ機が「糸のしるし」に糸を撚るが、バスキアや、グラフィティの素朴な要素が思いだされる。
 「ミラノ的」といえば、もっと複雑なのが「ロッククライマー(スカラトーレ)」の記号だ。62年の最初の展覧会以来半世紀以上たって、ウーゴ・ラ・ピエトラやアンジェロ・ヴェルガに率いられるチェノビオのグループが思い出させる。
 さらに「4つの花」のもとになっているのが、よりグラフィックな、ブリューゲルやフランドルの銅板画のような「記号」、ゴッホがレンブラントの作品の中に見たものを見つけようという望みだ。まるで土に引かれた条のように、掘り下げて痕跡を残す「記号」であり、芸術がしばしば芽吹かせる「救い」の種がそこには集められている。
 カルヴィーノの「見えない都市」につけくわえればいい「空想の街」と名付けられた世界に足を踏み入れれば、バビロンの門を越えたかのように、レゴでできたまちが広がる。建築家の卵、子供版ファン・ドゥースブルフが、巨大な遊び場に都市の様相を与えているようだが、18世紀の理想都市を夢見る建築家たちに愛され、19世紀のフリーメンソンたちのあこがれであったあの建築家のちょうど反対というわけだ。
 そして、「ヒュブリス」の罪を犯さないようにと警告を発し、世界を創造した神々とその掟を祈念する「仮の建築物」。調和の揺らぎと不条理をあからさまにしながら非情で尊大な形式を作りだすピラネージ的な壮大なカノンの記号を思い出させる。さらにそれは、晩年のモンドリアンを思わせる形の単純化が見られる「抽象」で凝縮された。「ブロードウェイ・ブーギー・ウーギー」のリズムに構成の意志がとって代わり、ブルーの色調に描かれている(英米系の表現センスが活かされているのも偶然ではない)。
 子供のころの罪のない眠りや夜のはかない悪夢、もしくは夢占いには、「湖の夜明け」の休息とざわめきにともなわれた目覚めの安らぎが訪れる。ジオット風の木々は、ルソーの驚きにみちたまなざしと、カルロ・カラの鋭く超然とした視線を通して描かれてもいる。下には1888年の7月の夜にはじめて、孤独なパリの人気のないカフェにたたずむその人の姿がある。そして、ゴッホが「山の夜明け」のひとりぼっちの男の姿でもどってくる。ただし、ここには友エミール・ベルナールもいる。放牧の牛たちはまるで昔の油彩(「草地のブルターニュの女たち」)の象徴主義の筆で描かれたのが連れてこられて、モザイクに組み込まれたかのようで(そもそもクロワゾニスムの重要な作品だった)、1世紀の時をへたそのもう一人の偉大な「幻視者」へのオマージュにもなっている。
 作品のイメージをひとつひとつ分析していけば、シニスカルキの芸術から響きわたるような予言的な幻には、多くの名前がこだましていることがわかる。ウィリアム・ブレイクの幻視的な夢の夜のイメージから、ポロックのほとばしるような衝動まで、スキファーノのほのかに醸し出される優雅な色彩のシンフォニーから、「印象派」の時代のカンジンスキーが規範を転覆した原初的なビッグバンの最初の爆発まで。特に「月光の下の安らぎ」のページで表現主義の渦にのみ込まれていく思い出を語ってもいる。彼独特の「幸福」に訪れる表現主義は、新しい十字架という贖罪の象徴に凝縮されたもので、マティスの生命の喜びとは非常に異なるし、フランシス・ベーコンやほかの多くの画家たち、たとえば現代作家のヘルマン・ニチェなどのものだ。ある精確なイコノグラフィーがあり、それが何度も繰り返される。例えばメランコリーのテーマは、ムンクをもとにして反復されるのである。たとえば、小さな帽子をかぶった男は十字架と「和」というべき調和の象徴で、暮れ方の月が赤や黄色、琺瑯のブルーの色調に描かれながら、一つに組み合わされ、喜びの渦で融合する。
 しかしより鮮烈なのは、西洋美術のコードをまとめる不安定な均衡に関わり、その深い淵では、不思議な混交が起こる。デューラー的記号にヴェドヴァやクラインが結びつき、それがボナール流の恐怖のヴィジョンに組み直される。生命の起源の水が再び活性化され、芸術上の完全な転生に命が吹き込まれて、新たな意味論的世界ができあがるのだ。それは、仏教絵画的な文化が新しい形を生み出し続けると同時に、日本的な図像の伝統が、やむことなき緊張にさらされながら、「和」という漢字に意味される概念に回帰していく世界である。「和」とは、二つの世界を結びつける漢字だ。その字は、もともと二つの記号が結ばれて、「穂」(芸術が作られる精神的な養分)と「口」(芸術が発信される人間の魂)を意味しながら出会いつつ、新しい「和」、平和という意味を生み出す。
 こうして、「和の灯火」が新しい世界の光となり、その宇宙は私たちの世界において人間の魂の奥底から浮かび上がってくる。悪しきを祓い、神聖で精神的な癒しのメッセージを守る古い、原初的な象徴体系から生まれながら、新たな調和のしるしを結合させるのだ。
調和と美。それによって芸術は人間を救うことができるのである。