ジュゼッペ•シニスカルキ

「フロントヴァーシズム」

私の考えを簡単にまとめよう。
「フロントヴァーシズム」という言葉は、私が新しく作ったオリジナルなものである。世界を少しでも良い方向へ、平和な世の中へ導くことができたら、という思いから、哲学的に文化的に芸術的に新しい考え方として捉え、かつてない新しい絵画の手法として、「フロントヴァーシズム」を提唱した。

私はキャンバスの裏にまで絵を描く。時には細部の見えにくい所にまで、時には額の底部にまで。その絵は確かに存在しているが、表から見えることはない。しかし、意味深い何かを残す。
それはまるで、存在はしているのに、我々の目には映らない多くの事物のようだ。多種多様なエネルギーや、非物質的な物、様々な感情、無限の宇宙に広がる銀河や惑星、マクロコスモス(大宇宙)やミクロコスモス(小宇宙)の各空間要素のように。
今、我々がこうしていられるのは、何のおかげであるのか、考えてみないか?人として生まれ、生き、様々な感情を覚えるのは、内に秘めた、外からは見えない”何か”のおかげではないのか?私は絵画も我々と同じ様に心や魂を持っていると確信している。そして、それは、表面上は見えないが、必ず存在し生きている。画家の躍動する心の鼓動を介し、絵はエネルギーを持ち、不滅の魂を人々に感じさせることができる。
キャンバスの前から見たのでは見えることのない物の価値を改めて考える時、絵画は、我々人類が世界とどのように向き合うべきなのか、改めて考えるきっかけに なりうるのではないだろうか?自然、限りある天然資源、対人関係など、目には見えないものに対し、我々はもっと敬意を払うべきなのかと、自問自答する機会を与え、自身の考えに変化をもたらすかもしれない。特に対人関係においては、日々の喧騒の中で、うわべだけのものになりつつあり、コンピュータや携帯電話のスクリーン上に限られてきているように思えてならない…。

「フロントヴァーシズム」は、また、逝去した人々を決して忘れてはいけない、という重要な意味も持つ。当然、我々の記憶には限界というものはある。しかし、彼らは私たちの中に消えることのない、忘れることのない、何かを確実に残していく。

争い事の多くは、己の身の程も知らず、決して満足することもせず、他人の意見を悪用し、思い込みに固執し、全世界と より良い関係を築き上げようとする意識が欠如しているために起こるのではないかと思う。
表面に見えるところだけに留まらず、さらにその先の深いところまで考える、という姿勢は、日々の喧騒のなかでおざなりにしがちな物事を、再評価するきっかけを与えるのではないだろうか。そして、また、平和を得る為には絶対不可欠である異文化間での相互理解にも役立つのではないだろうか。平和、それは決して軽視することの出来ない、絶対的な価値のあるもの、と私は考える。

「フロントヴァーシズム」は、木枠とキャンバス布のような貴重な天然資源を、無駄なく、最大限に有効活用しよう、という呼びかけにもなる。
ここまで「フロントヴァーシズム」の重要性を述べてきたが、私はしかし、常に裏にまで絵を描くわけではない。その時のインスピレーションに従う。時には短い文だけのこともあれば、時には筆でひと触りするだけ、小さな花を一輪だけ描くこともあれば、小舟を一艘だけの時もある。また、何も描かない時もある。「無」は宇宙の基本要素だからだ。

「フロントヴァーシズム」の概念のもと表現された作品は、その裏面を深い意味を示す物として、意識して飾る必要はない。裏面の絵は、顕微鏡で肉眼では見えない物を見るように、機会があったら見れば良いもので、オープンスペースに額を吊るしたり、透明な板に額を立て掛けたり、写真立てとして使われるような三脚の台に飾ったりする時に、見えれば良いものである。

「フロントヴァーシズム」の考えのもと表現された絵画の最大の魅力は、表と裏で表現されている点と、芸術作品が世界と良いバランスを保つ、という点にある。画像や思考や省察などと同じ様に、世界をより良い方向に導くことに貢献できる点にある。

絵画は、常に皆に親しみ愛されてきた芸術の一つであるが、現在、多くの分野で世界中に起こっている危機的状況でも、根底に位置するものと考えられ、音楽やファッションや建築と同様に、我々の生命を維持するリンパ液のようである。
我々は通常、表に見える物だけに関心をおきがちであるが、裏に潜んで見落としている物こそ大切なものがあるのではないのかと、この「フロントヴァーシズム」の考えで、皆に気付いてもらえたらと思う。
科学の分野で最近、画期的な発見と進歩を成し遂げたナノテクノロジーなどがよい例で、これは未来への技術を発見したのみならず、目に見えない物の重要性を我々に教えてくれる。
残念ながら、この「目に見えない物の価値」は、まだ多くの人に気付いてもらえていない。
私はこの考え方を展開するために、哲学的に文化的に芸術的に新しいものと位置づけ、「フロントヴァーシズム」と名付けることにしたのだ。
画家のほとんどの人が裏にまで絵を描かないのは、私にはとても限られたことをしているようでならない。宇宙全体を考える時、エネルギーや非物質的なものなど、とても多くのものが、我々の目(それは限りなく小さな物であるが)には見えないが、しかし、実は存在はしている、という事実に気が付くであろう。
私はこの考えに基づいて、キャンバスの裏の一部分や時には全面に絵を描くのだ。(私の作品「田舎と海の間で瞑想」や、「宇宙の平和」、「月と平和」、「春の平和の感触」、「上越の満月の夜」「火星より強い、月-和」、「月と和」、「太陽と和」、「砂漠の平和」、「星空の下の平和」、「平和のエネルギー」、「平和と自然」、「無限の平和」、「バナナとニンジンのダンス」、「惑星間の平和」、「平和の天秤」、「平和と仕事」、「海岸の平和」などにその例が見られる)。
無論、作品全ての裏にまで絵を描いているわけではない。禅の教えにもあるように、「無」は大切なことでもあるからだ。

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この「フロントヴァーシズム」は、既に誰かが唱えているのか、また、自分が第一提唱者なのか、関心はない。私にとってこの考えは至極当然のことであり、それは昔から自然に持っていた考えなのだ。(その証拠に、私の小学生の時の作品「幸せなジャガー」、「田舎の風景」、「数」にその考えが見られる)。

最後に、私の考えを15の項目に要約しよう。
1) 絵には、表からは見えないところに、画家の心と魂がある。
2) 見えないもの、それは不滅である。
3) 大宇宙や小宇宙の全てにおいて、表と裏は存在する。
4) 表だけ見て終わりにするのはやめよう。目に映るものは概してそれほど重要ではないことが多い。
5) 芸術は、平和について絶大な力をもつ、ただ一つの世界共通語である。
6) 大きな決断を迫られた時は、必ず危険とチャンスを伴う。平和への道には、必ず大きな成長の可能性がある。世界平和を真に願う者には、大きなチャンスが巡って来る。
7) 己の中に存在する、平和や平穏や幸せを強く望む気持ちを解き放ち、心のままにそれらを求めていこう。
8) 宇宙の美しさを尊み、敬意を表し、感謝の気持ちを忘れないようにしよう。
9) 常に自然の声を聞き、自然の中で瞑想し、そして自然に敬意を表すことは、自然についてあれやこれやと語る以上に、大切なことである。平和について考え、沸き起こる感情を、色や絵に例えていこう。そうすれば、この世はきっと良い方向へ向かっていく。
10) 笑顔は生のエネルギーである。
11) どんなに困難な境遇でも、常に平和を私たちの考えと行動の中心におけば、見通しは明るい。
12) 信頼は、宇宙の中で人間の存在をより高く、崇高なものにする。
13) 多くの問題は人間の小さな思い込みにより生じることが多く、壮大な宇宙に対して人間がいかに小さい存在であるかを考えれば、そのような小さな思い込みはすぐに忘れられる。
14) 謙遜は計り知れない価値を持つ美徳であり、愚者や偏見を持つ人は、そのことに気がつかない。
15) 貴重な資源を最大限に利用するために、紙の裏やキャンバスの裏にも絵を描こう。この考えは、この星の限りある資源を大切にし、世界の争い事を減らし、世界平和に繋がるであろう。

ジュゼッペ•シニスカルキ