オネリオ・オノフリオ・フランチオーゾ

franciosoaその日は突然やってきた。 僕は運命的に、ジュゼッペ・シニスカルキの絵と出会い、すぐさま観想状態に陥った。その日、長年自分を煩わせてきた疑問の答えを、僕は見つけたと思う。直感的に見て楽しむものとして芸術作品に触れるようになってからずっと、僕はその疑問を抱いてきた。芸術とは何か?芸術家とは何者なのか?その答えを得るために僕は多くの大学教授や高名な専門家の話を聴いた。

ルイ14世が自らの息子である王子に書いた『memorie』によると、専門家やエリートの話は信じ込まない方が良いということらしい。 僕の苗字は「フランス」に似ているけれども、また僕はフランス王子ではないけれども、ルイ14世の遺した有用なアドバイスを、僕はいつも忘れないようにしてきたし、歴史的コンテクストの中で今日のような時代には、特に忘れてはならないと思っている。誰しも、ほかの誰かの助けを借りることなく、自分自身の意志と魂が感じるままに答えを出したり説明したりすることは可能だし、またそこに歓びを見出すことも可能だと思うのだ。今の世の中、僕たちはただでさえ、周りの言うことにすぐさま影響されるようになってしまっている。いわれもなく、残酷に、地面に押し潰されるように。そうしてなんでも無残に捨て去ってしまうわけだが、僕はそんなことはしたくないと思う。

さてここまでは前置きだ。僕は、ジュゼッペの芸術作品を最初はふっと本能の感じるままに、そしてやがて慎重に、観察した。その時に僕の中に生まれた快い何かを、これから表現してみたいと思う。

僕は、優美な感情を追求する人間としての謙虚な気持ちから、概念の上での芸術家の定義を一つに限定したくない。芸術家を、「普通でない」生き方をする人物や、いかさまのオリジナリティーを気取る人物と混同するような過ちはおかしたくないからだ。逆に僕は、根源的な力が、意識の中に稲妻のように光って僕自身を照らし出す時の感受性で、芸術家の定義を言い表したい。芸術作品が生まれる時に必ず僕の中に訪れるあの、うっとりするような魅惑的なひらめきを表現したいと思うのだ。

芸術とは何か?

ジュゼッペの作品の前に立ってまず気づくのは、全ての作品が、過去から現在までのどんな時代にあったとしてもしっくりくる、ということだ。つまり時代にかかわらず評価されただろうということだ。なぜなら、「時間を超越した」現実の中に、作品が流れるように存在しているからだ。いずれにしても、物理学で言うところの「時間の矢印」 (あの誘惑)から始めるべきではないことは、わかっている。

ジュゼッペの作品には、今から最も遠い時代に人類が描いた壁画に見られるような、原始的な筆の跡が見られる。その時代の人類はすでに、その進化した特徴的な感受性でもって、地球上のその他の存在とは明らかに違う表現・伝達形式を用いていた。原始時代の掻き絵が証明するのは、その時代の人類の際立った創造力だ。それは、人類が天から与えられた観察力によるもので、そしてその観察力は、天才的なほどに純真な好奇心があればこそ、ほとばしるように生まれてくるのだ。

そう、それが、ジュゼッペの絵を見る僕の目に最初になだれ込んでくるものだ。ジュゼッペの作品は、単純で、無垢で、率直で、懐かしい、あけっぴろげに純良な心の中に、見るものを引き込んでいく。彼自身が抱いた感動が、そこに永遠に跡を残すようにして心の中に拡がっていく。子供のように無垢な心でも、感動を表現し残すことができるということを、彼は無意識に次世代に伝えようとしている。それは、今日あらがえないほどに膨らんでしまった複雑さの中に包み隠された悪の力がじわじわと広がるのを食い止めてくれる。

芸術は、作者の感動をそのまま忠実に再現するためにベストの技術を選択して初めて勝ち得るものであって、作品に使われている技術そのもので評価するものではない。

芸術史の中で技術は進歩してきた。僕らは常に新しい技術を試すわけだが、そのうちのいくつかの試みはときに、虚しく悲しい結果に終わっていると言いたい。にもかかわらずこれらの試みは、芸術として受け入れられ、賞賛すらされている。実社会で商業的に高く評価されているあの技術、この技術は、目の肥えた人々からも認められている。しかし、芸術そのものの本質からはどんどん離れていってしまっているのではないか。そこには色々な原因があるだろう。僕らが生きる現代の、後先を考えない軽薄さもその原因のひとつだ。芸術は、最も人工的な現代の生活の双務的な環境の中でおとしめられ、中世に熱烈な直感で「固体化の原理」と呼ばれたあの知的手法で弁証法的に説明しうるものに成り下がってしまった。

ジュゼッペ・シニスカルキの芸術作品は、汚れが染み付いたこれらのスキームとは無縁のところにある。人間が作り出す客観的存在を規定する幾多の原理を、また、神だけがこの宇宙の秩序(ジュゼッペの、汚れない気持ちで溢れるメッセージの中に隠れた宇宙の秩序)に与えることができる主観的存在を、神の内在が僕らに告げているということを、本質的な創造的感動を通じてジュゼッペの作品は知らしめてくれる。ジュゼッペは間違いなく、シンプルなそれでいて謎に満ちた神の指令を理解しようと努力している素直な芸術家だ。僕らが日々現実世界に映し出すややこしさとは彼は無縁だ。僕らはややこしさに自分自身を放り込んで、神の意志を代表している、あるいはまねていると思い違いをしているけれども、ジュゼッペが使う線と色には、神への敬意が込められているのが分かる。まるで、一筆一筆が神に感謝を表しているようだ。そしてその一筆一筆が、彼が体験し、つかみ取り、秩序付けた強烈な感動を表現している。僕らは今それを見ながら、未来を懐かしく思い起こすのだ。ジュゼッペの作品の中に見られるシンボルは、人間である僕らの中の何かを変えるささやきの声に僕には見える。ふと気がつくと、たった1枚のキャンバスが宇宙のように限りなく感じられ、絶え間なく脈打つのを感じる。彼の作品のうちのいくつかを、額縁の中に収めるのは犯罪行為に等しい。なぜなら側面にまで絵が続いているからだ、永遠を追い求めて。彼の作品のテーマに特に表れているのは、彼がたどり着いた静寂の感触を永久にそこに残したいという強い思いだ。そう、静寂こそ、現代において明らかに強く求められているものだ。さまよえる侍の魂が、砂糖のように甘く、優しい刀を携えて、至高の平和のメッセージを伝えたいと願うように。

芸術は時代に関係なく流れるものだ。僕らの心に、意識に、魂に触れる、シンプルなものだ。芸術はいつも、理知の歓びを呼び覚ましたいと願うところから生まれる。複雑で難解なテーマを表す時もそれは変わらない。芸術は、誰も傷つけることなく、僕らに自然と内省を促す。誰かを傷つけるような作品は芸術ではない!芸術は、神聖なものを敬う、謙虚な感謝の気持ちそのものだ。芸術は、永遠の命に愛の跡を残そうと切望する人間の灰のひとかけらだ。これら全てが僕にとっての芸術だ。もしそう考えるのが僕だけで、他の人々にとっては違うとしたら、流れ去っていくこの今、あなたがこのコンセプトについて僕が書いたこの文章を読んでいるというのは不思議なことだし、奇跡としか言いようがない。僕がこんな風にじっくり考えて書き上げることができたのはジュゼッペの芸術のおかげだ。彼に出会うことがなかったら、多分僕はだらだらと怠けて、この考えを言い表そうとはしなかっただろう。芸術に触れると、人生を愛したいと思うようになり、無限とは何かが一瞬でわかる。まるで、それまで見ていた夢が現実になり、目が覚めた後でもはっきりと鏡に映っているかのように。たとえそれがまだ、壊れやすく華奢なものだったとしても。

僕ら人間の意識は、禁じられた目的論的個体発生のアルゴリズムだと僕は信じている。だから芸術だけが僕ら人間の自我を解き放つことができるのだ。

芸術は、計り知れない人間の魂を、その力で計りうるものにしてくれる。

この意見をしたためた僕自身はいずれ死ぬ運命にあるけれども、僕は信じる。芸術への熱い思いがあるから、僕らの壊れやすい人間性は気高く昇華し、僕らは救われるのだと。

 

オネリオ・オノフリオ・フランチオーゾ

ジャーナリスト・作家・社会学者・法律学者