シモーナ・トマセッリ

序文。見えない月の裏側。

そう、そこに、ジュゼッペ・シニスカルキの「わ」1は、きらきらと輝く。

シニスカルキの絵は、神秘的なメロディーのように心にすうっと入り込んで来る。それはまるで自然界の音が捧げる祈りを聞くようだ。 海の音、風の音、木の葉が揺れる音、雪解けの雫の音。輝く太陽の光、夜空にまたたく星が心に奏でる音。これらの全てが、神秘的な空間の物語を創り出す。この人をより気高く、より真実に近い場所に生まれ変わらせるために、その空間はある。 この人が色彩と強い光に彩られた土地・プーリアに生まれたのは偶然ではあるまい。海と空の青、土の魅惑的な赤、うっとりとするような自然の香り。そう、顔を上げて空をあおぎ、静寂の中にその身を託して再び頭を垂れる時、誰もが我を忘れる。それは、忘れられたことのない、人間と神の間の儀式。自分自身を超越する神聖なもの。古代から今日に至るまで続く営み。

シニスカルキはそれをしっかりと表現し、理解している。自分の芸術には何かができると知っている。彼の絵は、ちょっと立ち止まって、命の光に満ちた月にその身を任せることができる人には「曼荼羅の癒し」だ。そこに「わ」があるから。「まんまるのわっか」が象徴するものを、彼の絵はこんなにも豊かに孕んでいるから、その「わ」はキャンバスの裏面までも、静かに腕に抱く。そしてそこに生命力が宿る。

月の裏面は見えない。でも、そこにある。

これはシニスカルキの言葉だ。私たちの目に見えないものも、どこかに潜在的に隠されていて私たちが理解できないことも、別のところにはその姿を現し、明らかに存在している。この絶対的な価値観のもと、彼の「まんまるい」絵は、一種の視覚的に哲学的な瞑想の中になみなみと注がれて、それを見るものは立ち止まる。

私たちは心を開かなければならないと、シニスカルキは訴える。禅で言うところの「無」を知り、広い心を持ち、偏見とうわべの価値とは無縁の子どものように、感受性豊かであらねばならないと。彼の考えはこうだ。「どんな場面でも、目に見える物を通り越してその奥にあるものに手を伸ばすとき、日常のルーティーンの渦の中で実は忘れ去られている大切なものが見えて来る。」せき立てるようにさらに続ける。「資源や無形のものの多くがそうであるように、この世のものの大半は目に見えないのだということに、思いを馳せなければならない・・・」。

2014年7月、シニスカルキは、自らが推し進める芸術的・文化的・哲学的な新しいムーヴメントの掟を定める。そこに、「フロントヴァーシズム」が生まれる。目に見えない月の裏面が、別の場所に輝き始めた。

目に見えるキャンバスの表の絵は、その裏にある見えないものによって完成されるのだ。

シニスカルキの思想に強く影響しているのは、日本人で、バランス感覚豊かな妻・関原睦恵と、シニスカルキの友人であり偉大な彫刻家の吾妻兼治郎先生だろう。吾妻先生はフロントヴァーシズムの趣旨を共有しマニフェストに署名した最初のメンバーの一人だ。しかし、シニスカルキは幼尐期から既に、その哲学の「遺伝子」を身につけていた。

その子は人間の中心的なテーマを手探りで探していた。戦争、平和、愛、家族、「積み重ねのあやういバランス」2に表されるような複雑な概念。どちらかというと彫刻家が持つ空間の創造性を模索しながら、このとき既に紙の裏にも絵を描き、最初の一歩を踏み出していた。

シニスカルキの幼尐期のエピソードのうちいくつかは、私の好奇心をかき立てた。そのとき私は、彼の芸術的メッセージを完全に理解するために、彼の人生の導線を遡って行かなければならないと直感したのだ。

幼尐期の絵「数」で、シニスカルキは紙の表にいくつかの数字を描き、裏面には表にない数字を描いている。これは一種、ものごとの全体を表・裏両面から読み解く動作ともいえる。

だから私はまず初めに、自分自身の幼尐期の段階を研究するべきだと彼に助言した。そしてその結果、彼はとりつかれたように自分探しを始めた。おそるおそる、自分の最初の作品群にまで遡り、更にその前の旧い記憶を辿り、最後に、自分の原始の姿よりも更に旧い記憶・・・人間があの「暗い、または神聖なものの世界」の風に揉まれていたときの記憶の中に立ち止まりながら、「時空を超えた人」を見つけ出した。その「暗い、または神聖なものの世界」は、科学者・芸術家・信仰を探求する人々にとっては大切なインスピレーション・研究心の源泉だ。

つまり、シニスカルキのこの作品の中には、彼の最初の言葉の種があるのだ。この世で最初の人間が、顔を上げて空をあおぎ、たくましい手で土を掘っていた時代から始まった、長い長い旅の中で見つかった種が。

さて、作業現場にいて工事の土台を見せるように、この大仕事について語りたいと思う。

全ては2013年の6月に始まった。そのときジュゼッペ・シニスカルキ弁護士は、私が関わるレオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館主催の宗教交流行事のために協力してくれていた。つまり全ては普通の仕事の会話から始まったのだ。

私は時々彼と打ち合わせした。いつもグレーのスーツに身を固めた、いかめしい弁護士、というのが私の印象だった。穏やかで、礼儀正しい。数ヶ月後、彼のことをよりよく知るに至り、彼の態度が日本文化に見られる厳かな雰囲気に似ていると気がついた。 彼はそのときたまたま、自分の描いた絵の写真をiPhoneで私に見せながら、芸術に興味があるという話をしていた。私はすぐに彼のポテンシャルに気づき、その才能を表現するためにもっと絵を描くべきだと背中を押した。

シニスカルキはキャンバスに向かい黙々と描き始めた。自分自身の芸術に陶酔しながら、惜しみなく。

まさに睦恵が妊娠していたのと同じ時期に、まるで彼のエネルギーが爆発したようだった。

そのうちに私たちの友情は段々と深まっていった。共通のプロジェクトが生まれた。彼の中の芸術家が、ぐいぐいと外側に現れてきた。

2013年のクリスマス、シニスカルキは友人らを驚かした。自分の絵が入った2014年のカレンダーを作ったのだ。今から思えば、あれが、この作品集を出版するという案に至る出発点だった。東洋と西洋の完全な調和の中に、深い宗教的意味を込めたメッセージを明白にしながら、彼の作品を紹介するというのが私の意図したところだったが、それを仕立てるのは簡単ではなかった。

彼の女神、睦恵。そこにしっかりと存在している、理想の人。もの静かで粘り強く、日本の小学校でシニスカルキが絵画教室を開く手助けをした。

週を追うにつれて、シニスカルキの回想録は彼の幼尐期に迫って行った。彼は、幼い頃の写真やら、実家の引き出しで見つかった絵やら、天井裏で忘れられていた小学校時代のノートやらを私に見せてくれた。

彼の個人的な探求は日を追うごとに感動を伴って完成の極みに近づいていった。彼は、今や老いた小学校時代の先生に会いに行った。先生は彼を覚えていた。シニスカルキにとっては幼尐期の側面が無視出来ないものになり、作品集の一番最初に持って来ようとまでした。

さなぎがなくては蝶が生まれないように、冬がなくては春は来ない。

そこに意味を込めながら、物語をつむぐ過程は決して短くはなかった。

友人ジュリアーノ・グリッティーニの素晴らしいアトリエに行くために、コルベッタに何度も足を運んだ。そこが私たちの作業場になり、作品集は次第に形を整えて行った。

一年かかって、やっと仕上がった。シニスカルキのメッセージは熟し、フロントヴァーシズムのマニフェストの上に明らかになった。

フィリップ・ダヴェリオの批評を読んで、私たちは皆一様に興奮した。

編集作業の終了直前に、日本から小林新治先生の批評が届いた。貴重な助力である。ここに、作品集の編集はついに完成を見た。

最後に、批評を寄せてくれた友人らと、世界各国からコメントを送ってくださった人々、とりわけ、米国から「全体の出来が部分の合計を超えている」とのお言葉を寄せてくださったグイド・カラブレージ名誉教授に心から感謝する。

それでは、良い旅を!