無言に広がり続ける 絵画の英知
ジュゼッペ•シニスカルキ氏の絵画全集を論評することは、慎重に思慮深く取り組みさえすれば、さほど難しい事のように思えなかった。しかし、彼の絵と向き合って行くうちに、段々と簡単な作業ではないことが分かった。私は論評を書く方法でさえ、慣れ親しんだ通常のそれとは変える必要があった。
はじめは純粋に美しい絵だと思った。細かい事にまで心を配れる、感性の高い人による絵だと思った。正直言って、彼の論評にこれほどエネルギーを要するとは想像しなかった。私はまず 言語学的な面から取り組み始め、次に精神的な面においてもかなりの準備を要せねばならなかった。
これがジュゼッペ•シニスカルキ氏である。
私は大学を出たのはかなり前であるし、芸術へのアプローチの仕方もすでにかなり時代遅れなものであるので、そう、毎日が幸せで他には何もなかった少年の時代にもどったような気になって、まるで初めて絵画を理解しようとしているかのように、一からやり直さなければならなかった。
絵画の世界にしばらく身を投じることは、私にとって大変有意義なことであった、精神的に優美で穏やかな心地よさを得ることが出来ただけでなく、私の生活観や世界観を広げるきっかけもくれたからだ。
私は日頃、論評は決められた期日までに書き上げるのだが、今回はそれを大きく延長してもらわねばならなかった。ジュゼッペ•シニスカルキ氏の作品に自身を同調させるだけでなく、彼の絵画から滲み出る宗教哲学の思考にも自身を調和させるのにかなりの時間を要したからだ。
芸術作品の創作者が教養豊かで、洗練されていて、人間性が多彩であればある程、その芸術作品を論評する事はより困難になってくるのである。
絵画を鑑賞する時には、何も前情報を得ず、思うがままにストレートに観るべきだと言う人もいるが、ある程度前もって勉強しておくことは、絵画をより深く鑑賞、解釈するためには重要であると私は考える。さもないと、ただの絵画の閲覧になったり、また、それ以下のものになってしまうことは避けられないのではないだろうか。
ジュゼッペ•シニスカルキ氏は、弁護士でありながら、芸術家でもある。芸術活動を近年になってようやく本格化したので、大器晩成型と言っても差し支えないだろう。彼は弁護士としての優れた分析能力の一面を絵画の中にも反映させ、卓越した思考能力によって、従来の芸術家を超えた芸術作品を創り上げている。
芸術家が絵を描く時、単に目の前に見えるものを描くのではなく、芸術家が培ってきた文化的な要素を取り入れることが必要であろう。それが成された時、芸術家は作品-オブジェの隅々にまで注意を払い、熱情を注ぐことが出来るのではないか。シニスカルキ氏は、伸び伸びと自然のままにキャンバスの枠を乗り越え、表面のみならず裏面にまで表現を続ける。シンボリックな言葉を頻繁に登場させることにより、伝えんとするメッセージはより明白となり、鑑賞者の関心をより強く惹きつける。
ジュゼッペ・シニスカルキ氏の素晴らしいひらめきにより、「フロントヴァーシズム」の言葉は生まれた。それは、読んで字のごとく、表面と裏面に作品を描く事であり、つまり作品の表面すべてに表現することである。
フロントヴァーシズムは、提唱直後から、作品の景観をより大きくワイドに見せ、大変効果的であると多くの人に受け入れられた。そして、この言葉を提唱したことにより、シニスカルキ氏は、正真正銘、新たな文化的、芸術的、宗教的、哲学的な運動の第一人者となったのかもしれない。このカタログはその新しい運動の第一歩である。
私は彼の作品-オブジェに共感を覚えるのだが、それはフロントヴァーシズムの考えの元に描かれた作品が、鑑賞者が作品のさらなる続きを見たいと願う時、また、普段誰も見ない裏面も見ることによって作品全体を見たと満足したい時、それらの願望を満たしてくれる「総合的な作品」と言えるからだろう。
我々の芸術家、シニスカルキ氏は、「フロントヴァーシズム」を提唱し、芸術の歴史に新たな流れを作り上げた。それは、彼が作品の中で完全に取り除いてしまったように、従来、額により制限されてきた限界を完全に排除した、一瞥しただけでは理解し難いかもしれない、美と知識からなる何か素晴らしいものを私達に伝える、高雅で力強い新しい芸術スタイルと言えるだろう。
何週間かかけて彼の芸術作品を観察しているうちに、ようやく彼の目的と文化的野望を理解したと思う。それは、ルネッサンスの最盛期に他の芸術家たちが成し遂げた偉業に、勝るとも劣らないものなのではないか、という結論に達した。たとえば、フィレンツェのロレンツォ•メディチ家の邸宅で、マルシリオ•フィチーノ率いるプラトン•アカデミーが志したように、当時芸術の首都フィレンツェでは、キリスト教と異教という異なる宗教文化を芸術作品を通して、融合させようとしていた。ジュゼッペ•シニスカルキ氏も異なる二種間の調和を表現しようとしており、それは他ならない文化的な、精神的な面での、西洋と東洋の思考の調和である。
私は文頭で全集と述べたが、今回の目的に関係の薄いものは除外されている。この全集はシニスカルキ氏の人生を時を追いながら網羅している。このカタログを手にするものは、彼の画家としてのキャリアの始まりの年少期から、画家活動を強く欲している自己を認識する今にいたるまでの、長く様々な時を経た彼の画家としての道筋をたどれるだろう。カタログにまとめるという必要性から作品を選抜せねばならなかったが、それでも芸術面からも、また、年代順からも、また作品の変化の面からも、そして、現在、作品に大きく影響を及ぼしている精神的な面からも、彼の歩みを感じ取ることが出来るであろう。
ジュゼッペ•シニスカルキ氏は、芸術活動を本格化するのにかなりの時間を要した。しかし「その時」が訪れた時、パズルのピースが全てあるべきところに収まったように全てが結集し、芸術家としての自分を全てさらけ出す、という方法に至ったのだった。
幼少時代、そして続く少年時代と青年時代の作品は、このカタログにより初めて公開された。 これはそれらを一時期に鑑賞することが出来る唯一の手段である。これらの作品群を観ていると、長い旅の果てに辿り着いた彼の人生は、今、父親になることと画家になること、この二つの経験によって新たに命を吹き返し、二つの経験は互いに触れ合う点を持ち、融合し合って、 ユニゾンの境地に達したのではないか、と感慨深くなる。
このカタログは幼少期の数少ない作品群をあえて掲載している。芸術性はあまり高いとは言えず、幼少の枠も超えていないが、大変興味深いものがあり、画家としてのスタートはすでに切られていると認識したい。まるでお伽話の絵のような絵画は、混沌とした整理棚の中から見つけ出され、混沌とした彼の記憶の中から、その当時の記憶を呼び起こし、大人になった今、少年時代の純粋な気持ちに心を沿わせて、それを本質的に生理的に取り戻そうとする気持ちを画家に呼び起こさせることだろう。
「子供の遊び」の絵では、背景に黒の線がところどころ飛び交っているが、それがこの絵に躍動感を与えており、大人には理解し難い子供独自の世界を示唆している。
「空想の風景」の構成では、これもまた子供の頃の作品なのだが、油絵の具を上手に使い、美しいものを描きたいという画家的意思がすでに感じられる。私達のほとんどはシニスカルキ氏を大人になってからしか知らないが、この二枚の絵から、少年シニスカルキ氏がいかに大人びた少年であったかを知り、まるで幼い頃から彼を知っているような気になる。
「積み重ねのあやういバランス」は、これも少年期の絵なのだが、この絵を見たものは強い感銘を受けるであろう。作品名でも分かるように、箱が積み重なった塔のような絵であり、ある 箱は秘密を隠しているような、また別の箱は秘密を暴いているような感じがある。まだ人格形成も途中の少年が、自身の未熟さもかえりみず野望のままに上へ上へと箱を積み重ね、塔は今にも崩れそうであるが、あやういバランスを保っている。一体どうやって少年の頭でこれほど 複雑な思考概念をこれほど的確に表現できたのか、驚きのほか何もない。
この時期から天職ともいえる画家としてのキャリアが始まったといえる。
世界的に有名な芸術家ポール•クリーは大人になり芸術家になってから年少期のような素朴な絵を描き、少年の心を再び取り戻そうとした。シニスカルキ氏はもっとシンプルでもっと核心をつく方法でそれをより上手く成し遂げている。つまり、彼自身の少年時代の絵を実際に探究することにより少年の心を蘇らせたのだ。
「湖の夜明け」と「山の夜明け」を描いた時、彼はまだ二十歳そこそこだったのだが、すでに芸術家としての才能は花開いている。そして、この辺りから彼のメッセージの本質が見え始める。それは彼の精神的な成長を静かに明示する、並外れたコミュニケーション•ツールとなっていく。
彼の絵の中には、厳かで静かな大自然の中にたたずむ小さな人間が出てくるが、これはおそらく画家自身であり、人類の象徴でもある。初期には端の方に描かれていたこの小さな人間は、 次第に中心部に描かれるようになる。まるで人類が宇宙に属していることを、ゆっくりと段々と強調していくかのように。ここでいう宇宙は、最も敬うべきものとして表現されている。
シニスカルキ氏の作品の中で、自然の要素は次第に存在感を増して行く。初期には自然との闘いを表現した。「自然の力の中の帆船」では、赤い炎が帆船を揺さぶるように、人生の不確実さを表している。そしてまた、「星空」や「天気の良い日」の中の自然では、ゴッホを類想させる青を用いて、また、モネを類想させるような印象派画家が好んで用いたやわらかな色を用いて、人間が己のより深いところにもつ和睦の精神を描き出している。
これらの作品らと似た作品を幾つか経たのち、画家は「自転車」と「象徴/幸せ」という、絵画というよりはデザインに近いものを描く。特に「象徴/幸せ」は、図案化している人型が、 両手両足を可能な限り広げて至上の喜びを表している。
そして、画家は風景画を描き始める。理解に深い考察が必要とされるミステリアスな彼の絵は、 鑑賞者の目を引きつけ、己を取り巻く世俗から一瞬のうちに離脱するほど人々をこの絵の世界に吸い込み、世俗とは真逆の、物質的な物が限りなく少ない自然の中へと我々をいざなう。この絵を見る者の心は、絵の中の船が風に行く手を委ねるように、水平線に浮かぶ太陽へと 真っ直ぐに導かれるだろう。
画家は少し後に「アルベルティーノの海」を描くが、そこには「船」と「光輪に包まれた太陽」という二つのシンボルが登場し、時間を超越した調和の境地が志向せられている。この二つのシンボルはその後彼のメッセージを示唆する根幹となっていく。
ここでシニスカルキ氏の研究は最も深い部分に辿り着いたと言える。画家自身がいうところの 「太陽・わ」、時に単に「わ」と呼ぶものである。「わ」は日本語で太陽などの円形を表し、また平和や団結を表す「和」に通じる。
この作品以降、太陽と、己が放つ壮大なエネルギーにより形成される同心円状の光輪は、彼の哲学の象徴として その後何度も登場する。彼の哲学とはつまり、東洋の思想と西洋の思想の壮大な融合に基づく友愛の精神である。
「瞑想する日本人女性」の二枚の絵の中にも我々は彼の心の平穏を認めることができる。一枚は太陽と一緒に瞑想する日本女性が描かれており、もう一枚は月と一緒に女性が描かれている。 画家は女性と「太陽•わ」そして女性と「月•わ」を二枚別々に描き、二つの天体間が織り成す 互いの影響をデリケートに表現している。
この感情は壮大で素朴な風景画「日本の田舎の風景」の中にも表れている。画家は、まるで天から下りて来たようなあぜ道が成す十字のサインと、天から我々を優しく温かく見守る「太陽 •わ」を結び付けて考えている。この絵は、ヴァン•ゴッホが晩年に描いた激しい感情の絵とは かなり違うが、それでも無意識の中に彼の絵をどこか意識しており、しかし結果としてゴッホ の激しい感情とは真逆の「わ」の精神を描いている。
「麦畑での瞑想」の夜の闇の中では、完全な平穏安泰の境地に至っている。月明かりの下で十字が交差しており、それは宗教間の違いを超えた完全なる信頼の精神を表現している。
至高の境地を示す「平和の兆し」では、神秘的な闇の中で「月•わ」が燦然と輝き、夜の闇と溶け合いながら、あまたを照らしている。
「平和の灯台」では、土台のしっかりとした灯台が水平な海に直立している。多彩な色調のハ ーモニーで描かれた灯台は、シンプルで素朴な感じがある。これは大人になった画家が少年の心を取り戻しながら、しかし少年が持ちがちな恐怖心は除外して描こうと試みた作品なのだろう。
「夕暮れの十字架と輪」は、これまでの集大成といえるだろう。一日の終焉の輝きを強く放ちながら夕陽がまさに沈み入ろうとしている山間は、 まるで柔らかな揺りかごのように優しく夕陽を包み込み、その下には守られるようにして小さな家が静かにたたずむ。この作品は画家自身が徐々に築き上げた「総合的な芸術作品」の概念を示す良き例と言えるだろう。芸術を超える何かを常に探求してきた彼は、正面にだけ描くという固定概念を打ち消し、キャンバスの正面に止まらず裏面にまで表現を拡大し、応用芸術と絵画の交点から生まれた作品を創り上げている。
最後に近年制作された作品群について述べ、私の短い評論の締めくくりとしたい。これらの作品は、常にキャンバスや紙の表と裏の両面に描かれており、以前に制作された物よりさらに「総合的な芸術作品」であると言えよう。どれも甘く切ないノスタルジアに満ちた叙情詩風のタッチで描かれている。
「星空の下の平和」は、様々なイメージを喚起させる。田舎の夜更け、眩しいほどに輝く月、そこにたたずむ一人の人間。彼はついに宇宙との関係に怖れを抱かなくなり、自分の存在を世界の中央に置く。
「無限の平和」では、月の周りをうごめく渦を巻いたような天の動きと、それに合わせて波打つような丘の動きが 互いに同調、融合し、レオパルディの記憶の遭難のように永遠に終わらない”無限”を見事に表現している。
「平和と自然」では、麦畑の上に現れた渦のような輪が完璧なバランスをシンボリックに示しており、鑑賞者は自然との心地よい共存関係を申し分なく感じる事ができるだろう。
「麦畑の平和」を見た者は、彼の他の作品を思い出すかもしれない。しかし、透き通るような、はっきりとした色合いは、他の作品とは明らかに異なるオリジナリティーを有しており、ヴェールに包まれた月は、我々をほっと安心させるような雰囲気を醸し出している。
「砂漠の平和」は、淡い、明るい色合いで表現されている。デリケートで柔らかな砂漠の色は、自然が作り上げる不思議な風景、砂丘を我々に思い起こさせ、まるで”平和”が我々の身体の内側からぐんぐん育っていき、身体が伸び広がるような感覚に落ち入るにちがいない。
「海岸の平和」も、彼の集大成の一つだろう。表絵と裏絵の比較は、どの他の作品よりも興味深い。裏面では表面よりも淡い色を使い、海の青としての鮮明さも希薄になっている。それはまるで夏のバカンスの記憶のように、次第に薄れていく。
「日本での平和な夜」は、タイトルからも想像できるように、巨大な月が神秘的な雰囲気を作り出している。満月が夜の闇にはっきりと浮かび上がり、月の満ち欠けをずっと見ていられる事ができたなら、そんな想いが感じられる絵である。
「「太陽-和」とマンゴー」について述べる事も忘れてはならない。作品名の通り、とても無邪気な純朴な絵だ。我々がもし、無邪気な心を忘れてしまっていたら思い出させてくれる、そんな絵である。この絵の素晴らしさは、限りないシンプルさと決して我々を裏切らない真っ直ぐな真実にある。
私はこの論評においてシニスカルキ氏の作品についていろいろと述べてきたが、それは彼の入り組んだ人生を、そして熱意と熟知を持って取り組んできた彼の芸術家としての道すじを理解する助けとなることだろう。しかし、言葉の限りを駆使したとしても、彼の作品を前にして沸き起こるすべての感情を表現するには決して充分ではない。コメントやましてや分析により、 その感情の波を破壊してしまうくらいなら、黙っている方が賢明なのかもしれない。
私は芸術評論家として、シニスカルキ氏の傑出している芸術作品と、そして、芸術を通じて伝えようとしている彼のメッセージの素晴らしさ、美しさを絶賛したかったのである。この大役を果たせたなら本望である。
ガブリエレ•グリエルミーノ
(教授、芸術評論家、芸術史家)